夜明け前。
誰かが言っていた。夜明け前が一番暗いのだと。
それは人生の例えだったはずだが、確かに嘘ではないらしい。まだ光は見えず、まるで夜の中を歩いているかと錯覚してしまいそうなくらいだ。時間はもう五時を回っているというのに。

「本当に夜が明けんのかって気にさせられるな」
「明けない夜はないっていう言葉を言いたくなるのもわかる気がするな」

和己はそう言ってまだ雲の厚い空を見上げた。こんな曇天の下で延々と過ごしていたら、人間気が滅入ってしまって仕方ないだろう。これがもうすぐあんな青空に変わるのだというのだから、天気とは不思議なものだ。オレは頷いてから、不意に蘇った記憶にあった言葉を口にした。

「明けない夜はないように、止まない雨がないように、永遠の悲しみなどなく、光はいつもそこにある」
「お、珍しく詩人だな」
「バーカ、人からの受け売りだっての」
「だろうな。おまえがそういうことをサラっと言うのは人から受け売りだって言える時だけだ」

お見通しですか、と小さく肩を竦めた。柄にもないことを口にしてしまうのは感傷的になった時だけだ。ましてそれを口にできるのは、触れずに見逃してくれる、この長年の親友の前でだけだ。
酒が抜けた後もぼんやりした頭で考えていると、不意に意外な言葉が口から出た。

「なーんか、海に行きてえな」
「行けばいいだろ」
「それって、今からか?」
「……駄目なのか?」

オレは一瞬言葉に詰まる。行きたいのか?と自分の胸に問う。答えはすぐに出た。
たぶんこれが他の誰かなら、オレは間違いなく「本気にすんなよ」って笑って流したに違いない。

「いや、おまえがいいならいいけど」
「オレは別に暇だからな」

和己はじゃあ行くか、ともうその気になっている。なんて切り替えが早い奴だとオレは舌を巻く。
したいからそうしているんだ、と言外に伝わってくるから気兼ねすることもない。それが楽だった。
たぶんこいつのこういうところが一緒にいて好きなのだと思う。

オレ一人だったらきっと口にしてそれで終わってしまうことなんてたくさんある。
元から野球以外だと、まあいっかと諦めるのは早い方だ。それが何事にも執着がない、関心がないと人から言われる所以だとわかっている。誰かに固執したり、執着する自分は好きじゃないからだ。
ただ、他の誰と一緒にいても、オレはきっとこんな風にはできない。和己の前でだけだ。

「このオレがなァ……」
「どうかしたか?」

どうしてか、こいつは人を自然に甘えさせる術を身につけている。というか、懐が大きいのだろう。
人に気を遣わせているように思わせない、重荷に感じさせない、自然な振る舞い。
とてもじゃないが、真似できない。だからこそあの難しい後輩だって全てを委ねられるのだ。
そしてオレもまた時として、こいつなら……という甘えを持って接してしまうのだ。

「慎吾、夜が明けるまえでもうすぐみたいだぞ」

ぼーっとしていたところを声を掛けられた。仰ぎ見た空は、ようやく光を覗かせている。
空気が活気を帯びてきて、世界が目覚めようとしているのを肌で感じる瞬間だ。

「夜明けの海は如何なものかねえ」

野郎二人で見ても綺麗には違いないな、と和己は茶化したが、オレもそれには同感だ。
さあ、これからこの目で現物を拝めに行くとしよう。




そして静かの海へ二人

明けゆく夜、色づく世界が目の前に広がった



△menu